こんにちは、カタカナ言葉が苦手で仕方ないヒサシです。
カタカナ言葉とは、要するに横文字のことですね。
私は製薬会社に勤めている関係で、このブログ内でカタカナ言葉に関する記事を書いてきました。
製薬会社にて飛び交っている奇妙なカタカナ言葉について思うこと①
製薬会社にて飛び交っている奇妙なカタカナ言葉について思うこと②
奇妙かつ珍妙なカタカナ言葉。
これらに触れる度に、自分が“横文字アレルギー”であることを実感しています。
まあ、一言で“横文字”と言っても色々あります。
例えばですが、アレルギーだとか、コミュニケーションだとか、そういった類のカタカナ言葉であれば平気なんです。
その一方で、私がどうしても苦手意識を拭えないのが『ビジネス関係のカタカナ言葉』です。
例えば、プライオリティだとか。
イシューだとか。
レギュレーションだとか。
もうね、こういったカタカナ言葉を見聞きする度に、自分の中で違和感が湧いてくるんですよ。
普通に日本語で言えば済むようなことでも、なぜ敢えて横文字を使って表現するのか?
日本に住んでいる日本人を相手として会話をするなら、日本語で表現すれば良いではないか。
だからこそ、違和感を禁じ得ない。
…などと思いつつ、私自身もこの違和感の正体が分からなかったんですよ。
いつ・どこで・どのようにして、自分は“横文字アレルギー”を抱えるようになったのか?
カタカナ言葉に対する抵抗感の源は一体何なのか?
そのような疑問について、これも良い機会だと思い、私は自分自身の人生を振り返ってみました。
その結果として判明したのは、私はカタカナ言葉そのものを嫌っているわけではなく、『カタカナ言葉を好んで使うようなタイプの人間』こそが嫌いだという事実です。
この結論へと至るまでの過程について、この記事では過去の経験などを中心に綴ってみました。
カタカナ言葉について苦手意識を持っている人は、是非ともご一読ください!
カタカナ言葉に嫌悪感を持つようになった出来事
そもそも、自分はなぜ“横文字アレルギー”となったのか?
私にしても、この世に生まれた時から“横文字アレルギー”だったワケではないはず。
とりわけ、ビジネスで使われるようなカタカナ言葉への苦手意識を持つようになったのはなぜなのか?
その理由について、約30年ほどの人生を振り返ってみました。
まず、学生時代に思い当たる節があります。
これはいわゆる“意識高い系”のヤツらが原因です。
次に、就職して社会人となって以降も心当たりがあります。
こちらは“知識を見せびらかすタイプ”のヤツらが関わっていることに気付きました。
では、私に“横文字アレルギー”を発症させた体験について掘り下げていきます。
① 学生時代にいた“意識高い系”の連中
私がまだ学生だった頃、同級生の中にやたらとカタカナ言葉を使うヤツが複数いました。
そういったヤツらは互いに気が合うのか、大学内の講堂や食堂などで“カタカナ会話”をするんですよね。
しかも、やたらと大きな声で。
次の講義のアジェンダは見た?
この前のテストのフィードバックはどうだったよ?
就活のプライオリティについてどう考えてる?
そのナレッジさぁ、マジでヤバくね?
もう少し時間にバッファがあった方が良くね?
そのメソッド、俺にも詳しく教えてくれよ!
こんな光景が日常茶飯事だったんですよね。
(※こういった会話を繰り広げていたのは、なぜか男ばかりだった気がする…。)
大体にして、カタカナ言葉の意味を本当に理解しているかどうかも疑わしい。
取りあえず、覚えたてのカタカナ言葉を使ってみたかったのでしょうか。
それとも、公衆の前でカタカナ言葉を使うことで、自己顕示欲を満たしたかったのでしょうか。
何れにせよ、まさに“意識高い系”の典型例。
もうね、ハッキリ言って気持ち悪すぎなんですよね。
いや、気持ち悪いのを通り越して、悍ましいとさえ思いましたから。
コイツら、頭がおかしいのか?
…などと当時の私は思っていましたし。
(※いや、今でも思っていますけど。)
そんな体たらくでしたから、彼らは学科内でも浮いている連中でもありました。
とはいえ、浮いているだけなら別に良いんですよ。
問題なのは、こういった“意識高い系”のアホとの会話を強いられる場面です。
班単位で何らかの作業をする際、“意識高い系”の連中とイヤでも会話するような場面があるワケですよ。
…で、彼らはまるで息を吸うかのようにカタカナ言葉を連発するときた。
当然、聞き手であるこちらとしては、彼らが何を言っているのか理解できるはずもない。
それどころか、まるで会話が成立しないことから苛々してくるときた。
挙句の果てに、こちらが困った顔をしていると、彼らはここぞとばかりにドヤ顔をしてくるんですよね。
俺はこれだけ難しい言葉をたくさん知っているんだぜ?
しかも知っているだけでなく、会話の中でも使いこなしているんだぜ?
どうだ!?
俺って凄いだろう!!?
…みたいな感じで。
あの時のウザさと言ったら半端じゃなかったです。
この野郎、脳みそが腐ってんじゃないか?
…などと本気で思いましたから。
『話がまるで通用しない』とはこのことなのかと肌身で実感しただけでなく、ヤツらの言葉を聞いているだけで苛々するときた。
結局のところ、“意識高い系”の連中は相手との意思疎通をする気なんて無いのです。
要するに、彼らは『カタカナ言葉を連発している自分』に酔っているだけなんですよね。
見方を変えれば、自分が発した言葉の意味が相手に伝わるかどうかについて、興味や関心などは無いとも言えます。
これを一言でまとめるなら、ただの自己満足です。
しかも、相手への配慮を著しく欠いている類の自己満足。
それで私はこう思ったのです。
カタカナ言葉を連発するヤツは、人を苛々させる天才だ!!
…とね。
自分自身の人生を振り返ってみると、カタカナ言葉に嫌悪感を持つようになったのは、学生時代が発端だったように思えます。
悪い意味で、あまりにも印象的でしたので。
このことが私の中で“横文字アレルギー”の発症に繋がってしまったのでしょう。
② 就職後に関わった“知識を見せびらかすタイプ”の連中
私は新卒で医薬品卸へと入社し、その後は製薬会社へと転職しています。
その過程でも、私はカタカナのビジネス用語を連発する輩を幾度となく見てきました。
(※どちらかと言うと、現場よりも本社で働いている人間に多い気がする。)
彼らの共通点としては、会議などの場でより一層、カタカナ言葉を連発するという部分です。
これ見よがしに、あれやこれやとカタカナで喋りまくる。
口を開けば、とにかく横文字の嵐。
聴衆の反応なんて、まるでお構いなし。
聞いている側として完全に置いてけぼりです!!
それでも彼らは止まらないときた。
とにかく、ひたすら、これでもかとカタカナで喋る喋る。
あなたは“ルー大柴”か?
…ってくらいにね。
このスキームの要点はこの箇所です。
このままの進捗ではリスケが必要です。
我々は常にクリティカルシンキングしていく必要があります。
顧客満足度を高めるためのイシューについて意見をください。
これからは皆さんのコンピテンシーについて評価していきます。
今日はこのインサイトについて議論しましょう。
これから力を合わせてレギュレーションを構築していきましょう。
今後のパラダイムシフトについて考えていきましょう。
このような言い回しを何十回、いや、何百回聞いたか分かりません。
一体、彼らは何を考えているのだろうか?
こんなにもカタカナ言葉を連発して、相手に意味が伝わっていると本気で思っているのだろうか?
目の前の相手と意思疎通が成立していると、本気で思っているのだろうか?
そのくせ、こちらが『○○という言葉の意味が分かりません』と言えば『えぇ?○○の意味を知らないの?』などと返してくる。
(※カタカナ言葉を使う全ての人たちが、こういった反応をするわけではありませんけど。)
『意味を知らない』という点については、確かに無知なこちらにも非があるかもしれません。
それにしたって、そこまで辛辣な言い草をしなくたって良いだろうに。
これって、明らかに見下されているのが伝わってくるような言い方なんですよね。
実際、こんなことを言われた側としては不愉快ですし。
そんな風に他人を見下せるなんて、一体どんな神経をしているのだろうか。
“相手が知らないこと”を自分は知っていることについて、もしかして優越感に浸っているのだろうか。
自分が持っている知識について、とにかく自慢したくて仕方がないのだろうか。
それとも、“相手を見下している”とか、“自慢している”とか、そういった自覚すらも無いのだろうか。
何れにせよ、健全な人間性の持ち主とは言い難い。
一言でまとめるなら『性格が悪い』ということです!!
このような人たちについて、私なんかはどうしても先述した学生時代の“意識高い系”の人種を連想してしまうんですよね。
いや、曲がりなりにも社会人として働いていることを考えれば、学生レベルの“意識高い系”よりは遥かにマシなのでしょう。
しかしながら、仮にそうだとしても好意的に受け入れられるはずがない。
何と言うか、彼らからは『相手にとって理解しやすい言葉で話そう』という意識が微塵も感じられないんですよね。
つまり、彼らは尤もらしい言葉でコミュニケーションをしているように見えて、実は相手との意思疎通を望んでいないとも言えます。
相手に何かを『伝える』ことではなく、自分自身が自由気ままに『喋る』ことに重視している。
これはある意味、驕っているとも言えそうです。
あるいは、人間同士の意思疎通について、何か勘違いしているのかもしれませんね。
彼らの姿を見ていて、私にはそのように思えてなりません。
あまりにも凄まじい自己陶酔。
あまりにも強すぎる自己顕示欲。
これらの要素が絡まり合い、彼らはカタカナ言葉を乱用しているのかもしれません。
結論、意味もなくカタカナ言葉を連発する人々は、どこか自分勝手なところがある。
だから私は彼らのことを好きになれないのです。
まとめ:カタカナ言葉については『何を言うか』よりも『誰が言うか』の方が重要かも!?
ここまで自分自身の経験・体験・記憶などを振り返ってみて、私はあることに気付きました。
カタカナ言葉を連発するような人間には、私にとって嫌いなタイプの人種が多いということです。
私にとって嫌いなタイプとは、具体的には“自分勝手”で“驕っている”ような人間のことです。
聞き手の意思や状況などを顧みることなく、自分の知識を見せびらかすかのようにカタカナ言葉を連発する人たち。
そんな彼らの自分本位というか、ともすれば思い上がっているとも表現できそうな部分。
何かにつけて相手を見下し、上から目線で物を言うような人間性。
そういった部分をこそ、私は嫌悪しているのだと気付きました。
もちろん、カタカナ言葉を使う全ての人たち全員が“性悪”というワケではないですけど…
言い換えれば、カタカナ言葉そのものは意外と嫌いではないということです。
言葉とは意思疎通のための道具であり、それ自体に善悪はありません。
もし悪者がいるとしたら、それは言葉を“使う側”の問題あって、言葉そのものに罪はない。
たとえ、それがカタカナ言葉であってもです。
要するに、私が普段から感じている“横文字アレルギー”の根源とは、カタカナ言葉を乱発するような人間に対する嫌悪感なのでしょう。
勿論、カタカナ言葉を使う人間全てが驕っているだとか、人間的におかしいだとか、そこまでは言いません。
もしカタカナ言葉を使うにしても、聞き手にとって理解しやすいように、噛み砕きながら話してくれる人がいるのも事実です。
しかしながら今までの経験上、カタカナ言葉を好んで使う人たちは、聞き手のことを蔑ろにしている節が散見されました。
その過程で、私の中ではカタカナ言葉を使う人たちへの嫌悪感が形成されてしまったのかなと。
結局のところ、私は過去の経験の積み重ねによって“横文字アレルギー”を抱えた今日の状態へと至っているのだと思います。
まとめると、大切なのは『何を言うか』よりも『誰が言うか』ということです。
単純なことですが、その事実について改めて気付いたという感じですね。
…というワケで、カタカナ言葉そのものには罪は無いと自分に言い聞かせ、少しずつでもカタカナ言葉に馴染めるような努力をしてみたいと思います。
今から何年かかるか分からんけどな!!
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
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そうでそうです!私が思っていたこと全て代弁くださりありがとうございます。
私も製薬企業の本社勤めです。現職の前は2社ほど製薬会社以外で働いていましたが、
その時はあまり気にもならず、今の会社に来てからカタカナ語をやたらと聞くようになりました。
ヒサシさんのおしゃる「喋りに集中」で合点が行きました。自分も気を付けます。
INさん
コメントありがとうございます!
製薬会社の本社で働いている人にとっても、やはりカタカナの横文字が横行しているという実感があるのですね。(汗)
カタカナ言葉の善悪はともかく、コミュニケーションが成立しないと本社・現場との間で溝が生まれかねません。
ちなみに製薬会社の種類にもよりますが、特に外資系だとカタカナ言葉を好んで使う傾向があるような気がします。
現場で働いているMRを含め、カタカナの横文字を聞いてもピンとこない人は多いです。
是非とも「聞き手」のことを意識していただければと思います!
わざわざカタカナ言葉で表現する人「自らの頭の悪さを片仮名で誤魔化そうとする底なしの愚か者」でしょうね。
カタカナ語の存在意義は本来漢語や和語に置き換え難い物、つまり元々日本に無かった概念や物を表現することにあります。
「ミシン」、「コンソーシアム」(「企業共同体」という漢語もあるにはあるが、つい入ってきた概念のため片仮名で差し支えないでしょう。)、エレベーター、エスカレーター等は片仮名でも問題ないでしょう。
その反対に「コンセンサス」(合意形成)を初めとする元々の日本語が有るものを片仮名言葉に置き換える人は「自らの頭の悪さを片仮名で誤魔化そうとする底なしの愚か者」であり、「自らの中身の無さをカタカナ語という装飾品で糊塗している無能者」です。
山城守さん
コメントありがとうございます!
私の周囲にもいるカタカナ言葉を連発するような人間をよくよく観察してみると、聞き手に対する配慮が欠如しているように思えてなりません。
「自分の意思を相手に伝えること」を重視しているのではなく、むしろ「自分が気持ちよく喋ること」を重視している印象を受けます。
それはある意味、山城さんが指摘する通り「愚か」あるいは「無能」な証拠なのかもしれませんね。
彼らのようなカタカナ言葉の信奉者たちには、コミュニケーションの何たるかを基本から学び直してほしいものです。