こんにちは、自称エヴァオタクのヒサシです。
3月12日(金)にやっと『シン・エヴァンゲリオン』を劇場で観てきました!
本当は公開初日の3月8日(月)に観たかったけど、仕事の都合ですぐには観に行けず…(涙)
…といワケで、ようやく観ることができたシン・エヴァンゲリオン。
その感想を一言で表すとしたら、
感無量です!!
嬉しくもあり、寂しくもあり、悲しくもある。
多分、エヴァのファン歴が長い人ほどこういった傾向があるのでは?と思います。
(※その後、僕はエヴァの声優陣による舞台挨拶も観に行きました!)
シン・エヴァンゲリオンの舞台挨拶を観てきた感想!カヲル・加地・リツコの声優による裏話が興味深かった!
ところで、ちょっと話が逸れますが、僕は学生時代にエヴァにハマった人間です。
エヴァの新劇場『破』が公開されたころ(2009年)、友達の勧めでエヴァを観たことがキッカケで、僕はエヴァワールドの住民となりました。
最初はね、エヴァのことをただのオタクアニメだと思って小馬鹿にしていたんですよね。
エヴァンゲリオン?
それってオタクが観るアニメでしょ?
…みたいな感じで。
そんな考え方をしていた僕も、現在では立派なエヴァオタクの1人です。
こんな風にハマってしまうほどにエヴァンゲリオンの世界観は奥深く、キャラクターも魅力的で、アニメとしての描写も秀逸です。
そんなこんなでエヴァにハマって以降、僕は新劇場・旧劇場版・TVアニメ版・ゲーム・漫画、果ては二次創作といったジャンルまで、各種メディアにおけるエヴァンゲリオンを一通り齧っています。
そんなエヴァオタクの僕にとって、今回公開されたシン・エヴァンゲリオンはまさにシリーズの集大成でした!
シン・エヴァンゲリオンの予告PVでシンジが『さようなら、全てのエヴァンゲリオン』と言っていましたが…
その言葉の『本当の意味』が感慨深い。
これが、エヴァンゲリオンの終着点。
そう思わせてくれるような内容に仕上がっている映画でした。
そこで、このエヴァ熱が冷めないうちに、シン・エヴァンゲリオンについての感想を綴っていこうと思います。
これ以降はネタバレ込みで記事を書いていますので、まだシン・エヴァンゲリオンを観ていない人はブラウザバックしてください!
…と言うか、今すぐ劇場に行ってきてください!!
(上映時間がメチャクチャ長いので、トイレは必ず済ませてから劇場に入りましょう!)
斜め上の展開こそが庵野監督の真骨頂!?
まずは、このシン・エヴァンゲリオンという映画を創り出した庵野(あんの)監督に一言。
いや、この際だから『庵野』と呼び捨てにさせてもらう。
アンタの頭の中は狂っているよ!!
天才を取り越して、もはや狂人だよ。
良い意味でも、悪い意味でも。
旧劇場版のときもそうでしたが、まさに斜め上を行くことに定評がある庵野。
エヴァの物語(特に劇場版)には、庵野の精神状態が反映されているのは割と有名な話だけどさ。
旧劇場版のような救いのないバッドエンドという前例もあるから、シン・エヴァンゲリオンでも何かやらかすんじゃないかと思っていたんだよ。
…で、案の定と言うべきか、
シン・エヴァンゲリオンでもやってくれたな庵野ォォォ!!
狂気じみた台詞や描写の数々。
新劇場での狂気レベルは『序』⇒『破』⇒『Q』と着実にアップしてきたが、今回で一気に限界突破してきたな。
ただ、少なくともバッドエンドではなくて安心したよ。
エヴァの魅力とは、ある種の狂気じみているところにあると僕は思っているので、シン・エヴァンゲリオンは最高に楽しめた。
それから、エンディングに至るまでの過程も圧倒的だったよ。
その証拠に、シン・エヴァンゲリオンの上映直後、
館内は無言だったぞ。
マジで誰も一言も発していない。
僕は妻と一緒に2人でシン・エヴァンゲリオンを観たけど、夫婦揃って数分間は無言だったよ。
それはつまり、観客は言葉を発することすら出来なくなるほどにシン・エヴァンゲリオンの内容に圧倒されたってことだよ。
脳が麻痺するというか、それだけの情報量が映画の中には込められていた。
シン・エヴァンゲリオンという映画を通じて、庵野の人物像が改めて伝わってきたよ。
結局のところ、庵野が僕たちエヴァファン(オタク)に伝えたかったのは何だったのか。
個人的な解釈だけど、
もうエヴァンゲリオンから卒業しろ。
…ってことを伝えたかったんじゃないだろうか。
作中でシンジもアスカで『好きだった』と過去形で気持ちを伝えあう場面があるけど…
『エヴァというコンテンツ自体を過去形で語るようになれ』という庵野からのメッセージが込められていた気がしてならない。
ついでに言うと、庵野自身がエヴァに関わることに疲れていたのではないだろうか。
これまた作中でゲンドウが『他人と関わるのが苦痛だ』と言う場面があるけど、これこそが庵野の本心ではなかろうか。
とにかく、シン・エヴァンゲリオンを含む数々のエヴァ娯楽を世界に提供してきた庵野よ。
1人のエヴァファンとして、『エヴァンゲリオン』という素晴らしいコンテンツを生み出した貴方の存在に感謝します。
お疲れさま…ゆっくり休んでください!
立派な大人になった『鈴原トウジ』
シン・エヴァンゲリオンの序盤、第3村と呼ばれる集落で生活するシンジ・アスカ・レイ。
この日常パートを彩る存在の1人が鈴原トウジだ。
『Q』では死亡説も囁かれていたトウジだけど、立派な大人(しかも医者)として生きている姿を見て安心したよ。
(…と言うか、トウジが生きていることが判明したこの時点で少しばかり泣きそうになった。)
ニアサードインパクト(略してニアサー)後の世界で懸命に生きてきたであろうトウジ。
しかも、委員長こと洞木ヒカリと結婚して、ツバメという娘までいるとは!!
まあ、『破』⇒『Q』の時点で14年が経っているから、現在のトウジ・ヒカリは28歳ということになるし、この展開は不自然ではない。
そもそも、トウジ・ヒカリは旧アニメ版の頃からカップルフラグが立っていたので、これはむしろ自然な流れと言うべきか。
エヴァ3号機のパイロットに選ばれた挙句、旧アニメ版では片足を失い、漫画版に至っては死亡したトウジ。
そのことによってシンジに憎悪をぶつけてきたヒカリ。
そんな過去作の経緯を考えると、このシン・エヴァンゲリオンの展開それ自体が救済のように思えてならない。
まさに感無量。
序盤の日常パートなのに、良い意味でエヴァファンの心を抉りに来るという、とにかくニクい演出でした。
『相田ケンスケ』とかいう作中随一の勝ち組
トウジ・ヒカリと同じく、生存が確認された相田ケンスケ。
しかも、ニアサー後の世界では『何でも屋』として危険な仕事も請け負っているときた。
おまけに、顔つきも精悍なイケメン風。
極めつけに、自宅内でシンジがゲ〇を吐いても嫌な顔をすることなく、床を拭きながらシンジを気遣うケンスケ。
おいおい、トウジとは別ベクトルでカッコいい大人の男になっているじゃないか。
そしてさらに衝撃だったのが…
アスカと付き合っていると思しきシーンがあるじゃないか!
まあ、アスカとケンスケが明確に付き合っているという描写はないのだが…
アスカから『ケンケン』という愛称で呼ばれるくらいには親しい仲みたいだし、何よりアスカは全裸または下着姿でケンスケ家に居候(?)している。
そんなアスカの姿を見て、まるで日常風景の一部であるかのように全く動揺していないケンスケ。
これらの描写から、2人が単なる友人以上の関係であることは明白だ。
過去作では、トウジ・ヒカリと比べるとモブ感が否めなかったケンスケだが、このキャラクターがここまで出世すると誰が予想しただろうか。
ゲーム版の『鋼鉄のガールフレンド』や、漫画版の『碇シンジ育成計画』では、女子全般(特にアスカ)にフラれるというピエロ的な役回りが多かったケンスケ。
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特に、鋼鉄のガールフレンド2でアスカからフラれたときのケンスケは、まさに恋愛弱者の典型だったというのに。
そんなケンスケが、エヴァの最終章とも呼ぶべき本作で、まさかの汚名返上を成し遂げるとは…!!
本作の終盤、精神世界にてシンジがアスカに『ケンスケによろしく』という伝言を託すことから、アスカにとって大切な異性=ケンスケということが窺えます。
まさかの展開に、僕を含む全国のエヴァオタクが驚いたはず。
エヴァのヒロイン論争では必ず名前が挙がるアスカだが、そんなメインヒロインの一角をゲットしたケンスケは凄い。
まさに作中でも随一の『勝ち組』ではないだろうか。
余談だけど、僕がどちらかと言えばアスカ派です。(レイ・マリ・ミサトが嫌いなわけではないけど)
欲を言えば、最後はシンジとアスカの組み合わせでハッピーエンドになったら良いな~なんて思っていました。
(※旧劇場版ラストのシンジ&アスカがあまりに不憫だったので。)
ただ、シン・エヴァンゲリオンを観た後だと、アスカ&ケンスケの組み合わせもアリだな~と思うようにもなりました。
『アヤナミシリーズ』の真実
序盤のクライマックスと呼ぶべき『Q』で登場したアヤナミレイ(仮称)の死亡シーン。
LCLに溶けてしまった彼女を見て泣くシンジ同様、僕も泣きそうになりましたよ。(涙)
このアヤナミレイ(仮称)は、『序』『破』で登場したレイとは別人です。
(※本作の後半、冬月コウゾウによってこのレイは『ナンバー6』という個体だったことが判明する。)
実際、過去の綾波レイを知るヒカリからも『ソックリさん(=似ているだけの別人)』と呼ばれていますし。
…にも関わらず、人間らしさを学んでいくアヤナミレイ(仮称)の成長⇒死亡というコンボによって、観客を鬱々と感動させてくれるとは。
さすがだな、庵野よ…。
さて、そんな綾波レイを含むアヤナミシリーズですが、本作で新たな設定も判明しました。
シンジに好意を抱きやすいように創られた存在というのは初耳です。
旧劇場版・旧アニメの頃から、エヴァパイロットの少年・少女は皆『仕組まれた子供』と呼ばれていましたが、アヤナミシリーズはまさにその最たる例ですね。
そんな仕組み自体をも受け入れて、自分の感情を大切に思いながら逝ったアヤナミレイ(仮称)。
儚く、悲しく、それでいて味のある序盤のクライマックスでした。
そして本作の後半、ついに精神世界にて『序』『破』で登場したレイが登場。
しかも、描写を見る限りだと、序盤にLCLに溶けていったレイ(ナンバー6)の感情も引き継いでいるっぽい。
おいおい、泣かせるないか…。
そんなレイがシンジに見送られるシーンは、エヴァファンなら一見の価値アリです!
レイ…本当にお疲れさま!
『シキナミシリーズ』の真実
新劇場では『破』から登場した『式波=アスカ=ラングレー』。
彼女もまた、アヤナミシリーズと同じく『人為的に創られた存在』であったことが本作で判明しました。
つまり、大勢いるシキナミシリーズの中の1人であり、自我を持ってエヴァ2号機を操縦していた人物こそが『式波=アスカ=ラングレー』だったのです。
親の顔(存在)を知らず、エヴァ関係のトレーニングに明け暮れる一方、自分を認めてくれる存在に飢えていた式波アスカ。
幼少の頃より、彼女は彼女なりの孤独を抱え、苛まれていたことが窺えます。
この辺りは、旧劇場版・旧アニメ版よりも、むしろ漫画版に近い設定ですね。
精神世界ではアスカの承認欲求を満たす存在としてケンスケが登場しますが、旧アニメ版や漫画版では、加地リョウジに承認を求めていた節があります。
つまり、アスカは大人の男=父性を求めていたと思しき描写がされています。
各メディアの要素を上手く活かしてきたな、庵野よ…。
ところで、シキナミシリーズのオリジナルは誰なのか?
実はそのオリジナルこそが、旧作で登場した『惣流=アスカ=ラングレー』であるとの描写があります。
本作の後半、使徒としての力を解放した式波アスカですが、オリジナルと思しき惣流アスカと同化(?)します。
さらにその後、精神世界にてシンジと再会し、互いの想いを吐露した後で見送られるアスカ。
精神世界でのアスカは『式波』と『惣流』が融合(?)した状態っぽいのですが…
このときの場面が旧劇場版のラストでシンジとアスカがいた『赤い海』だったことから、旧作を含めた因縁が消化されたとの見方もできます。
『式波』にせよ、『惣流』にせよ、これでアスカはエヴァから解放されたということを意味しているみたいです。
本作のエンディングでは、アスカは駅のホームにて1人で佇んでいます。
このことから、アスカはシンジやレイと関わることなく、自立した1人の大人として新しい人生を歩んでいることが窺えます。
ところで…
序盤で『Q』のシンジと同じく、式波アスカにもDSSチョーカーを取り付けられていることが判明したときは、いつカヲル君のように首が吹っ飛ぶかとヒヤヒヤしましたが…
とにかく、式波アスカのDSSチョーカーは不発に終わって良かったです。
きっとアスカファンからの反発を恐れた庵野による仕業だな!
アスカ…本当にお疲れさま!
『葛城ミサト』の苦悩が深い!
葛城ミサトと言えば、旧作でも大人キャラクターを代表して酷い目に遭いまくったキャラクターですが…
『それがどうした』と言わんばかりの鬱設定により、新劇場でも屈指の苦労人であることが判明しました。
『Q』の時点ではシンジに辛く当たるミサトでしたが…
その心の底には、凄まじい苦悩があったことが明らかに。
実は『Q』の時点で加地リョウジとの間に息子がいたという衝撃の新事実。
しかも、その息子には会うことなく、あくまでヴィレのリーダーに徹してきた14年間。
『破』の直後(14年前)、妊娠中のため恋人である加地に付いていけなかったという過去。
(※しかも、加地はサードインパクトを止めるために死亡。)
そして、セカンドインパクト(=親類の半分が死滅)の元凶は父親である葛城博士だった。
おいおい、どんだけ人生ハードモードなんだよ…。
シンジ・アスカ・レイとは方向性こそ違うものの、ミサトもまたエヴァによって翻弄され、人生を狂わされた人間の1人だということが改めて浮き彫りになった本作。
これだけの業を背負っても折れないミサトは女傑と言う他ない!!
そして、本作では物語が進むほどに人間らしい感情を露にした葛城ミサト。
ヴィレのメンバーの前ではリーダー然とした態度を崩さないものの…
リツコを含め自分以外のメンバーを退避させた後は、リーダーという重圧から解放された影響なのか、昔ながらのノリを披露するときた。
そうだよ、これだよ!
これこそ、エヴァファンが求めていたミサトだよ!
…などと、今ではシンジよりもミサトの年齢(Q以降は43歳)に近くなったアラサーの僕は超テンション上がりました。
そして、シンジに新しい武器(ガイウスの槍)を届けるためヴンダーごと特攻⇒爆死という鬱コンボ。
その傍らには息子リョウジとシンジのツーショット写真。
まさに、本作後半のクライマックスの1つです。
しかし、ミサトの勇ましさにより鬱というほど鬱な印象もないまま、無事にガイウスの槍はシンジの手に届く。
このシーン、僕は超感動したんですよね。
最終的に死亡するという点だけを見れば旧劇場版や漫画版と一緒ですが、シン・エヴァンゲリオンのミサトは『次世代を生かすため』という決意を持って特攻します。
この一連の行為には大人として、そして親としての確固たる覚悟が窺えます。
ミサト…感動をありがとう!
『鈴原サクラ』の葛藤も深い!
鈴原トウジの妹として、設定上は『序』あるいは旧アニメ版で登場していた鈴原サクラ。
その後、『破』では幼少期の姿が、『Q』では成長後の姿が描かれたサクラだが、このキャラクターの台詞や行動がとにかく深い。
シンジは恩人であるけど、仇でもある。
もうシンジはエヴァに乗せない。
そう叫びながらシンジに銃口を向けたサクラの顔には狂気が滲み出ており、
しかも実際に発砲した。
(※銃弾はシンジを庇ったミサトが被弾したけど。)
つまり、銃撃によって死なない程度のシンジを負傷させ、何が何でもエヴァに乗せまいとしたのだ。
このときのサクラの表情は旧劇場版のアスカ並に鬼気迫るものであり、それだけサクラの葛藤が深かったことが観る側にも伝わってきました。
よくよく考えてみれば、シンジが『序』『破』でエヴァに乗らなければ、使徒によって世界は滅亡していたんですよね。
当然、そうなったらサクラのみならず、他の人間も全て死滅していた。
その展開をシンジが阻止したのは事実なわけで、だからこそサクラはシンジのことを『恩人』と呼んでいるんですよね。
一方で、『破』の終盤でシンジ(初号機)の暴走によって起きたニアサーによって、親しい人(親など)を失ったのも事実。
サクラ自身もこの相反する事実によって苦しんできたのかな~…なんて思わされました。
サクラの感情を一言で表すなら『愛憎』ですかね。
でも、どちらかと言えばシンジに対して『愛情』とか『感謝』の気持ちの方が強かったのかなという気がします。
シンジがヴィレに戻ってきた際、一発ビンタしたものの、その後はシンジに泣きついていましたし。
(※その様子を見ていたアスカからは『女房か』と突っ込まれる始末。)
『恩人』であるシンジに、もう苦しんでほしくない。
『仇』であるシンジに、これ以上の人殺しをさせるわけにはいかない。
そんな感情がサクラの中を巡っていたのかな~なんて思います。
ヴィレメンバーの一人であるミドリは『ニアサーで家族が死んだ』という背景もあり、憎悪によってシンジに銃口を向けましたが…
サクラの場合は、あくまでシンジを『救いたい』という感情のために銃口を向けています。
つまり、一般人目線での対比的な描写がされているんですよね。
とにかく、この一連の流れはエヴァらしい人間ドラマしていて僕的には大満足でした。
『碇ゲンドウ』の独白は庵野監督の本心か!?
精神世界のゲンドウが色々なことをぶっちゃけていましたね。
他人と関わるのが苦痛だとか。
これって、まさに庵野の気持ちを代弁しているように聞こえちゃいました。
幼少期~少年期の庵野は、こんなことを考えながら過ごしていたのかな~、なんて思ったり。
エヴァのキャラクターは各々が庵野の分身みたいなものですが、本作のゲンドウは特にその傾向が顕著だったのかなと。
精神世界のゲンドウに関する描写はそのくらい生々しく、リアリティがあるものでした。
他にも、妻であるユイを失った苦しみに耐えられなかったりとか。
息子であるシンジとの距離感を測りかねていたりとか。
何と言うか…
社会不適合者の典型じゃね?
…なんてことを思いながらスクリーンを観ていました。
一言でゲンドウのことを表すなら『アダルトチルドレン』ですかね。
アダルトチルドレンとは、社会からの抑圧、家族の不仲などによって、生き辛さを抱えたまま大人になった人間のことです。
他人が怖い(疎ましい)からSDATを使って外界からの情報を遮断しようとする辺り、ある種の幼稚な行為であるわけで。
自ら他人と関わっていこうとするのではなく、自ら殻に閉じこもってウジウジしてる点は、まさに大人になりきれない子供って感じです。
これはシンジにも通じる要素であり、さすが親子だな~という感じです。
ただ、ゲンドウは最期にユイに会えたわけだし、旧劇場版のときほど鬱々とした退場ではなかったのが意外でしたね。
シン・エヴァンゲリオンのラスボスはゲンドウで、シンジまたは初号機に滅殺されて退場するのかと予想していましたが、僕の読みは見事に外れました。(汗)
こんなイカれている父親を見放さず、きちんと対話する展開に持ち込んだシンジは偉いよ。
少なくとも、旧劇場版のときよりはゲンドウにとっても救いのある展開で良かった!
『渚カヲル』は幾度となく転生を繰り返してきた存在
『序』の時点でカヲルはエヴァ世界で何度も転生(ループ)している存在だと囁かれていましたが、やはりその通りでしたね。
新劇場のみならず、旧劇場版や旧アニメ版。
さらにメタ目線で考えると、様々な漫画版・ゲーム版でのカヲルも、一連の転生に含まれていたのかも。
その転生した先々の世界で、ただひたすら『シンジが幸せになる方法』を探していたのだろうか。
少し話が逸れるけど、PS2の『新世紀エヴァンゲリオン2』というゲームでは、使徒であるカヲルが人類の味方となるシナリオがあるんですよね。
しかも、カヲルはプレイヤーキャラクターとしてエヴァ4号機に搭乗し、次々と使徒を倒していくという超展開。
ここでのカヲルはシンジにとってより良い未来をもたらすために活動しているのですが、シン・エヴァンゲリオンからも同じような匂いを感じました。
他には『鋼鉄のガールフレンド2』というゲームでも、カヲルはカウンセラー並の献身さで、シンジのメンタルの支えになったりもしてたし。
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…まあ、シンジにとって最も幸福なのは『碇シンジ育成計画』で描かれている学園ラブコメの世界のような気がするけど。
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とにかく、カヲルはシンジのことを最優先として動いている。
…と思いきや、本作では加地の指摘通り『シンジのためではなく自分のため』に動いていたことが判明。
まあ、シンジが幸せなら自分も嬉しいってことなんだろうけど。
この辺の事情って、すごく人間らしい動機だと思うんですよね。
『誰かのため』なんて、所詮はただのエゴに過ぎない。
結局のところ、自分が気持ち良いからやっているだけ。
そのことを認めたカヲルは使徒でありながら、人間以上に人間らしいと感じましたよ。
とりあえず、カヲルよ!
旧劇場版、旧アニメ版、そしてもしかしたら大量に存在しているエヴァ関係の漫画版・ゲーム版を含めて、転生お疲れさん!
エンディングではレイと仲良さそうにしてたけど、とにかくゆっくり休んでくれ!
中盤以降のシンジはマジで漢(おとこ)だった!
正直、序盤(第3村)のシンジってさ、観ている側としてはメチャクチャ辛かったんだよね。
こんな精神状態のヤツがどうやって立ち直るの?
…みたいな感じでさ。
でも、トウジ・ヒカリ・ケンスケ、そしてレイ・アスカとの関りを通じて少しずつ人間性を取り戻していったシンジ。
しかし中盤以降、精神的に大きく成長したシンジ。
ウジウジしてばかりだったシンジが、ここまでの漢(おとこ)に化けるとは。
『破』のラストでレイ救出のため奮闘したシンジもカッコ良かったけど、本作ではまた別ベクトルでのカッコよさがある。
ニアサーという因果によって、周囲からの敵意や憎悪を向けられつつも、それらから逃げ出さずに受け止めたシンジ。
その後、父ゲンドウとの対決⇒対話⇒救済を成し遂げたシンジは最高にカッコよかった!
旧劇場版や旧アニメ版、そして様々なメディアでのシンジを見続けてきた僕(エヴァオタク)ですが…
本作でシンジが見せてくれた成長ぶりには超感動しました!
文字通り『親越え』を果たしたシンジですが、これからはエヴァンゲリオンがいない世界で平和に暮らしてほしいと思うばかりです。
まさかのマリエンディング!そしてアスカは…!?
エンディングの駅は山口県の『宇部新川駅』であり、どうやら庵野の故郷らしい。
そんな駅のホームで大人のシンジがベンチに座っているときた。
そして、反対側のホームにはアスカ・レイ・カヲルがいる。
一方で、シンジはマリと共に駅外へと歩き出していく。
つまり、これはマリエンドというわけだ。
おいおい…
なんじゃこりゃぁぁぁ!!!
アスカ派である僕は脳内で絶叫しましたよ、マジで。
いや、必ずしもシンジとアスカがくっ付かなくても良いんだけどさ。
レイとカヲルはカップルっぽい雰囲気を出しているのに、なぜかアスカは1人でベンチに座っている。
つまりこれは、
アスカぼっちエンド
…ってことじゃないか!!
おいおい、ケンスケはどうしたんだ?
新世界でのアスカは、ぼっち扱いなのか?
それとも、孤高の存在的な扱いなのか?
キャリアウーマン的な感じでバリバリ仕事していて、男を寄せ付けない設定なのか?
答えろ、庵野ォォォ!!!
…みたいな感じで、とにかく僕の脳内は完全パニック状態でした。
ありとあらゆるエヴァコンテンツに触れてきた僕にとって、この超展開には付いていけず、茫然としたままスタッフロールを眺めてましたよ。
ただ、冷静になってこのエンディングシーンを振り返ってみると、何だか庵野のメッセージ性みたいなものを感じている自分もいるから不思議です。
旧劇場版のときもそうでしたが、こんな庵野からのメッセージが込められているような気がしてならない。
敢えてエンディングでこういった映像を見せることで、庵野はシンジ・アスカ・レイのみならず、観客をも『エヴァの呪縛』から解放しようとしたのだろうか。
そうか、アスカ派だとかレイ派だとか、そんなことを考えている時点で『エヴァの呪縛』に囚われているってことなのか。
ということは…
庵野が伝えたかったのは『エヴァの呪縛から抜け出せ』ってことなんだろうか。
ついでに言うと、庵野自身も『エヴァの呪縛』から解放されたいと願っていたのだろうか。
そう考えると、味のあるエンディングシーンに見えなくもない。
さすがだよ、庵野。
いや、それでこそ庵野だ。
こんな素晴らしい作品を世の中に提供してくれて、マジでありがとうッ!!
まとめ:シン・エヴァンゲリオンは『神作』だった!感動をありがとう!!
記事の冒頭でも書きましたが、このシン・エヴァンゲリオンという作品はエヴァのファン歴が長い人ほど感動すると思うんですよね。
いや、単なる感動という言葉すら生温い。
あらゆる因縁に決着がつくという高揚感。
もう新しいエヴァ作品は出てこないという寂寥感。
そして個人的には、アスカエンディングではなくマリエンディングという悲哀感。
こんな様々な感情をもたらしてくれるシン・エヴァンゲリオンは最高の神作です。
最後の最後に『終劇』という文字が出て、そして消えた瞬間には感無量でした。
僕を含めて、劇場内の観客が無言だったのも当然の話です。
あまりにも色々な感情が沸き起こり過ぎて、言葉を発することすら出来ない。
それだけの素晴らしさがシン・エヴァンゲリオンには詰まっていました。
何度でも言わせてもらうが、マジで最高だったぞ庵野!
こんな素晴らしい作品を世に送り出してくれてありがとう!
取りあえず、確実にあと3~4回くらいは観に行くからな!
で、出来ることなら『破』⇒『Q』の空白の14年間の物語を映画化してもらえるとメチャクチャ嬉しいぞ!
第11使徒とか新劇場版では未登場だし、サードインパクトが起こったときの話とか超興味あるしな!
まあ、シン・エヴァンゲリオンがエヴァの最終作品なのは決定事項なんだろうけどさ…
僕はまだまだエヴァオタク(エヴァの呪縛)からは脱却できそうにないから、とにかく検討だけでもしてみてくれ!
それじゃ!
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