こんにちは、アラサーMRのヒサシです。
突然ですが、皆さんは『正義中毒』という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
読んで字の如くですが、正義を振りかざすことに執心しているような状態です。
実はこのとき、人間の脳内にはドーパミンと呼ばれる快楽物質が放出されています。
このドーパミンの中毒性は凄まじく、場合によっては“誰かを批難すること”が気持ち良すぎて、自分では止められない状態になってしまうのだとか。
自分は○○だから正しい!
アイツは△△だから間違っている!
世の中は××だからおかしい!
皆さんの周囲に、こんなことを常日頃から声高に叫んでいる人はいないでしょうか?
もしいるとしたら、その人は正義中毒の状態に陥っているかもしれません。
漫画で例えるなら、DEATH NOTEに登場するキラみたいな奴かな?
自分が正しいと思うから、他人を許せなくなる。
批難したくなる。
怒りを抑えられなくなる。
実は最近、私自身もこのような現象に悩んでいました。
他人から批難されると腹立たしいのは勿論のこととして、何かにつけて他人を批難しがちな自分もイヤでして…
そんなこんなで、自分の中にある怒りの感情を何とかコントロールできないかと思いまして、本屋でこのような本を買ってみました。
ご覧の通り、本のタイトルは「人は、なぜ他人を許せないのか?」です。
他人を許せない。
そう思う度に、自分の心の内が黒くなっていく。
今までの人生で何百回、いや、何千回経験したか分かりません。(汗)
そんな経緯もありまして衝動買いした本なのですが、これが思った以上に良書でした。
著者は脳科学者の「中野 信子」という人でして、この本の中では、他人に対して怒りを感じるメカニズムが述べられています。
その中でも、特に興味深いのは『正義中毒』という概念です。
人間は脳とは、他人を批難することが“気持ちいい”と感じるように出来ているのだとか。
こういった脳の仕組みがあるからこそ、公私を問わず、人間はいがみ合うのだと腑に落ちました。
私は製薬会社のMR(営業)として働いている人間ですが、周囲に溢れている人間関係のトラブルのうち、7割~8割くらいは正義中毒が原因だとさえ思いました。
そんな正義中毒について、その原因と対策、さらに私自身の体験談を織り交ぜて記事を書いてみました。
ストレス社会と呼ばれている今のご時世、正義中毒の人は思った以上に多いのかもしれません。
『正義中毒』とは何か?
人の脳は、裏切り者や、社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。
他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質のドーパミンが放出されます。
この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して他人を許せないようになるのです。
引用:「人はなぜ、他人を許せないのか?」5ページ
正義中毒の正体は、ドーパミンによる依存症的な症状です。
要するに、自分の正義を主張する(=他人を非難する)と、脳ミソが『気持ち良いぃぃ!!』と感じるというワケですね。
しかも、日頃からその快感に慣れていると、脳が常に快感を欲するようになる状態が出来上がってしまうのだとか。
タチが悪いのはまさにこの部分で、脳が快感を得たいがために、誰か(または何か)を叩かずにはいられなくなってしまうのです。
相手の考え方が理に適っているかどうか以前に、相手のことを叩き潰すこと自体が“気持ち良い”わけですからね。
まさに“中毒状態”ということか…
著者によると、この気持ち良い状態について自覚することはかなり難しいそうです。
だからこそ、正義中毒は厄介であると述べられています。
脳の仕組みとして存在している以上、人間はこのドーパミンによる快感からは逃げられないということですね。
…とは言っても、適度な快感であれば特に問題は無いのでしょう。
(※快感が一切ないような状態は、それはそれで脳にとっては問題である。)
しかし、あまりにもドーパミンの快感にハマってしまうと、もはや自分の正義を振りかざすだけのモンスターになってしまう。
そして、そのような正義中毒モンスターは決して珍しい存在ではない。
例えばですが、2020年のコロナ禍によって出現した自粛警察、あるいはマスク警察と呼ばれる人々。
彼らのように過剰な正義を振りかざす人々も、ある意味では正義中毒者の一例と言えそうですね。
そう言われてみると、リアルでも、ネットでも、やたらと『俺(私)は正しい!』と言って憚らないような人って多いような気がします。(汗)
とりわけ、誹謗中傷などの意見は圧倒的にネットの方が多いですからね。
インターネットが普及し、匿名性が高い場所にて自分の意見を言いやすくなった今のご時世、正義中毒となってしまう人は決して珍しくないのでしょう。
『正義中毒』の特徴
自分が絶対的に正しいという過剰な思い込みから、異なる考えを持つ他人をバカと決めつけ、攻撃(バッシング)を加えます。
災害時などに見られる過剰な不謹慎叩きや、芸能人の不倫叩きも、こうした見方から再考すれば、
「あいつはバカだ」「あんなバカなことをする奴は許せない」「叩かれて当然だ」という、
正義中毒者の暴走状態と見ることができるのです。
引用:「人はなぜ、他人を許せないのか?」34ページ
率直に言うと、この部分を読んで私自身にも思い当たる節があります。(汗)
普段働いている中で、上司や同僚の意見に反発したりとか。
本社の方針に対して不満を漏らしたりとか。
家族や友人知人と口論になった場合とか。
そんな時、ついつい『バカ』という単語が口から出ている気がします。
このブログに関しても、正義中毒的な要素を含んでいるような記事って、考えてれば結構多いような…。(汗)
例えば、下に並んでいる記事などですね。
初対面でイヤ~な感じがするMSの特徴について現役MRの視点から考えてみる!
説明会などの場面でMRに弁当をねだる『身勝手なMS』について思うこと
私はこういった記事を書くとき、一応それなりに相手側の事情も推し測った上で執筆しています。
多分、相手としては○○という考えのもとで行動しているのだろう、とか。
相手が△△となってしまった原因は、きっと✕✕という背景があるからだろう、とか。
…とは言いつつも、こういった主義主張を述べるとき、やはり根底にあるのは『自分が正しい』という気持ちなのかもしれません。
自分が正しいと思うから、相手は間違っていると感じる。
そのことが面白くない。
不愉快である。
見過ごすことが出来ない。
こういった思考が積もり積もって、怒りの感情が湧く…ということですね。
著者の言葉を借りれば、これは脳科学的には自然な反応だそうです。
善悪はともかくとして、怒りの感情が湧くこと自体は決して変なことではない。
重要なのは、その怒りをどのようにコントロールできるか否かです。
ここで怒りをコントロールを出来れば、正義中毒となる前の段階で踏みとどまれる。
しかし、怒りに任せて『相手がおかしい!自分こそが正しい!』という思考が暴走してしまうと、いとも簡単に正義中毒の状態になってしまうのだとか。
うーん、何だか耳が痛くなる話だな…(汗)
付け加えると、インターネットのような匿名性の高い場所ほど、正義中毒が進行しやすいと著者は述べています。
ご存知の通り、インターネット上ではどれだけ過激な意見を主張しても、自分自身に実害が及ぶ可能性は極めて低いです。
もし仮にどこかの誰かと口論になったとしても、互いに顔も本名も知らない間柄ですからね。
物理的に殴られるワケでもなければ、サイバー攻撃を仕掛けられるワケでもない。
つまり、ネット上では誰かを罵倒してもリスクは殆どゼロだと言えます。
言うなれば、匿名であることに付随する負の側面といったところですかね。
そういった匿名性こそが、正義中毒の状態を加速させてしまうのだとか。
…という心理が働いてしまうのでしょうね。
誰かを叩くことについて、ノーリスクだからこそ“病みつき”になってしまう。
インターネット隆盛の時代において、正義中毒とは現代病であるとも言えそうです。
脳内の『前頭前野』が発達している人は正義中毒になりにくい
長期的な展望を予測して思考する機能は、
前頭前野(前頭葉の前部にあって、高次機能の中枢を担う)の背外側部が担っており、
相手の反応を想像する機能は前頭前野の眼窩と接する部分に、
そして自身の行動の善悪を自身で判定する機能は前頭前野の内側部にあります。
つまり、自らのことを制御するという一連の流れはすべて、前頭前野が担っているわけです。
引用:「人はなぜ、他人を許せないのか?」78ページ
正義中毒になりやすい人。
正義中毒になりにくい人。
両者の間に、何らかの傾向はあるのか?
…ということで、著者は脳内にある前頭前野という部分に注目しています。
結論として『脳内の前頭前野が機能している人ほど正義中毒になりにくい』のだとか。
なぜかと言うと、前頭前野によって感情の起伏がコントロールされているからです。
しかし!!
この前頭前野と呼ばれる部分ですが、放っておくと、どんどん衰えていくらしいです。
筋肉だって筋トレをしていないと徐々に衰えるのと同じで、脳もまた脳も身体の一部である以上、衰えからは逃げられないということですね。
しかも筋肉と違って、脳の衰え具合を目視で確認するのは不可能です。
(※病院で精密検査とかをすれば話は別ですが。)
20代よりも30代。
30代よりも40代。
40代よりも50代。
…といった具合に、加齢に伴って脳(特に前頭前野)が衰えるのは、よほど注意していないと避けられないということですね。
著者によると、高齢者ほど感情のコントロールが上手くいかないのは、この前頭前野が深く関わっているのだとか。
怒りっぽい高齢者が『キレやすい老人』などと揶揄されることがありますが、それはあながち間違っている表現でもなさそうです。
これは高齢者ほど脳が衰えており、脳内で感情をコントロールする機能が損なわれている…という理屈で説明がつきます。
そう言われてみると、ウチの親も昔より格段にキレやすくなっている気がする…
まあ、高齢者のことはさて置き…
若年でも怒りっぽい人、正義中毒になりやすい人はいます。
そういった人々は、もしかしたら脳内にある前頭前野が上手く機能していないのかもしれません。
厄介な『一貫性の原理』
人間は、自分が言い続けてきたこと、やり続けてきたこと、信じ続けてきたことを中々変えられません。
そして、それまで見せてきた自分と矛盾しないように振る舞わなければいけないという根拠のない思い込みに、無意識に縛られています。
この現象を、心理学では「一貫性の原理」と呼んでいます。
引用:「人はなぜ、他人を許せないのか?」155ページ
わかる。
確かにわかる。
自分自身の人生を振り返ってみて、自分が行ってきたことを曲げられなかった経験って、今思い返してみると結構あります。(汗)
部活のレギュラー争いで敗れた時、今までの努力を無駄にしたくなくて、より一層練習に打ち込んだりとか。
受験勉強でスランプに陥った時、志望校に合格できる可能性が低くても、それまで積み重ねてきたことを信じて、志望校を変えることなく試験に臨んだりとか。
就活でも、社会人生活でも、似たような場面は沢山ありました。
それら全てが悪い結果に繋がったワケではなくとも、人生の節々で意固地になり過ぎていたことは否めないです。
そう考えてみると、俺は『一貫性の原理』に縛られがちなタイプなのかも…?
その他には、会社を退職するときに難癖を付けてくる人たちの心理も、この一貫性の原理によって説明できそうです。
例えばですけど、私は新卒で入社した会社(医薬品卸)を退職するとき、上司・先輩から色々なことを言われたんですよ。
こんな具合に、それはまあ激しいバッシングを受けたものです。
(※私個人としては、ハッキリ言って心外もいいところでしたけどね。)
医薬品卸を辞めると表明したときの上司・先輩・後輩の反応について実体験を語る!
上司・先輩にとっては、今まで自分が身を預けている会社を否定されたようで、きっと面白くなかったのでしょう。
私が会社を辞めるという行為そのものが、彼らにとっては『不正義』のように感じられたのかもしれません。
ついでに言うと、私に対して辛辣な言葉をぶつけてきたのは、揃いも揃って40代~50代の人たちでした。
もしかすると、彼らは先述した脳内の前頭前野が衰え始めていて、感情のコントロールが利かなくなった可能性もあります。
そこに『一貫性の原理』まで加わったことから、退職者に対して必要以上に苛烈なバッシングをしたとも考えられます。
正義中毒になりがちな人ほど、一貫性の原理に縛られているのか?
一貫性の原理が呼び水となり、正義中毒に陥りやすくなのか?
何はともあれ、私が退職するときにブーブー言っていた人たちは、実は正義中毒に陥っていたとの見方もできます。
正義中毒を乗り越える鍵は『メタ認知』
日常的に合理的思考、客観的思考ができるようなクセをつけておく、
あるいはそうせざるを得ない状況に身を置いておくと、
前頭前野は鍛えられ、衰えを抑制することが期待できる可能性があります。
前頭前野の働きが保たれていると、前頭前野の重要な機能である「メタ認知」を使うことができます。
メタ認知とは、自分自身を客観的に認知する能力のことです。
もう少し詳しく説明すると、「自分が✕✕しているとわかっている」「自分がこういう気持ちでいることを自覚している」ということです。
「私は今こういう状態だが、本当にこれでいいのか?」と問いかけることができるのは前頭前野が働いているからであり、メタ認知が機能しているからなのです。
常に自分を客観的に見る習慣をつけ、メタ認知を働かせることが、前頭前野を鍛えることに繋がります。
引用:「人はなぜ、他人を許せないのか?」178ページ
これね、理屈は分かるんですよ。
確かにこれを実行できれば、正義中毒とは無縁な生活ができるでしょう。
でも、そう簡単にはいかないのが人間という生き物です。
その証拠に、ここで著者が述べている『メタ認知』とは、脳科学的にはかなり難易度が高い行為だそうです。
むしろ難易度が高いからこそ、私を含めて大多数の人間はメタ認知とやらを実行することも出来ず、常日頃から他人との諍いが絶えないのでしょう。
職場の上司・同僚などとの軋轢はもちろんのこと、家族や友人が相手であっても、喧嘩になるときは喧嘩になります。
要するに、自他共に客観性を欠いた行動・言動が多いからこそ、争いに繋がるような摩擦が起きてしまうのでしょうね。
この辺りは私にとっても耳が痛くなる話ですが、自分自身を客観視するのって、本当に難しいことだと思います。
人間は誰しも、自分の主観に沿って行動するものです。
そういった本能的な機構に逆らって、自分自身を第三者の目線で常に見つめるのって、決して簡単ではないんですよね。
言うは易く、行うは難し!!
まさにそんな言葉が当てはまるのが、著者が述べている『メタ認知』なのかなぁと思います。
ただ、正義中毒を回避する上でメタ認知は超重要なことは理解できたので、この機会に自分自身を客観視することを意識してみようと思います。
最後に:人間は誰もが『正義中毒』となる可能性を持っている!
正義中毒の対象は他人です。
誰かに対して自分の正義を主張したり、他人に自分の正義を強要したりすることは、
結局のところ誰かを縛る行為に他なりません。
もちろん、場合によってはそれが適切とみなされることもあるでしょう。
明らかに相手に非があり、自分が責任を持って対処しなければならない場合、
監督責任とか指導責任という名の下に正当化されることもしばしばあります。
しかし、時にはそれがパワハラの温床になったりもします。
(中略)
相手のために指導しているつもりが、
「自分は正しく相手は間違っている」という思考回路に陥ってしまうと正義中毒状態になり、
相手から見ればパワハラ以外の何ものでもないという状況になってしまいます。
これは、SNSなどにおける正義中毒の症状とよく似ているケースでもあります。
(中略)
自分の考え、つまり「自分なら容易にできること」「自分が既に知っていること」「自分がしっかりやっている(つもりの)こと」について、
「自分の経験上編み出してきた自分の正義」を当てはめ、知らず知らずのうちに、
そこから逸脱しないことを強要するようになっていくのです。
引用:「人はなぜ、他人を許せないのか?」207~208ページ
わかる。
スゲーわかる。(汗)
サラリーマンあるあると言うか、まさに指導という名目の“苛め”がコレですね。
現職の製薬会社でも、前職の医薬品卸でも、指導の域を明らかに超えているパワハラを幾度となく見てきました。
上司からの指示が明らかに変であったとしても、その指示通りに行動しないと詰られたりとか。
どう考えても理に適っていない先輩のやり方に異を唱えたら、逆上して怒鳴られたりとか。
社内のゴルフコンペや飲み会への参加を断ったら、過剰とも呼べるレベルで批難されたりとか。
MS時代に飲み会・ゴルフ・BBQなどの社内行事を強制されて苦しんだ体験談
要するに、これは他人に期待しているからこそ起こる現象なのでしょうね。
目の前にいる人間に対して、この人は自分の正しさを理解してくれるはずだと勝手に思い込む。
しかし、現実にはそうではなかった。
なまじ期待していただけに、裏切られたような気持ちになってしまう。
そんな時、日頃から正義中毒に陥っている人間は暴走を始めてしまうのでしょう。
自分は正しいと思っていることを他人に否定されると、ムキになって自分なりの正義を主張しようとする。
客観性を欠いた暴論を展開し、目の前にいる相手を叩きのめそうとする。
そして、自分の“正義”を疑うこともせず、一方的に相手のことを悪者扱いする。
いわゆる“独善的な正義”というヤツですね!
私の経験上、こういった傾向は年長者(あるいは年配者)ほど強烈でした。
その仕組みについて紐解いてみると、やはり脳の衰えが関わっていたのかもしれません。
そんな正義中毒と思しき人たちは厄介極まりないと思う反面、ぶっちゃけた話、明日は我が身だとも思っている自分がいます。
人間とは、徐々にですが確実に老いていく生き物です。
この記事を書いている私も、この記事を読んでいる読者さんも、“老い”からは絶対に逃げられない。
心身だけでなく脳も老いていき、それと並行して感情のコントロール機能も失っていく。
その前提で考えてみると、いつか私自身も典型的な“正義中毒者”と成り果てる日が来るのかもしれません。
でも、そんな酷い人間にはなりたくないものです。
それならば、今後自分はどうすれば良いのか?
それはやはり、著者である中野さんが述べている通り、意識して自分自身を“客観視”することが大切なのだと思います。
自分の言動によって、相手の気分を害したりしないだろうか?
自分の行動によって、他人に迷惑を掛けたりしないだろうか?
このような視点を持ち続けることが、自分を正義中毒から遠ざけることに繋がるのでしょう。
たまたま本屋にて衝動買いしてみた「人は、なぜ自分を許せないのか?」という本ですが、私にとっては中々の良書であったように思えます。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
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